『1985,IN MCMURDO』(夏塩 端)
晴天。
太陽と地面を遮るものは何ひとつない。
その日の冬空はよく晴れて、海辺の町では風が強く吹いていた。
海鳥たちは何かに抵抗するように海の上を飛び続けては、強風に押し戻されて岩場の上を漂っていた。
「灯油を、これに半分だけください」
家から持ってきた赤いポリタンクを、私はいつもと同じセリフを口にしながら手袋をはめた手で差し出した。
町にひとつだけあるガソリンスタンドはひと気がなく、常に閑散としている。
灯油を買うときは、いつもポリタンクに半分だけと決めている。
じゃないと重すぎて、自転車に載せて持って帰れなくなるからだ。
赤いポリタンク半分、9リットル。それが、自転車で持ち運べるギリギリの量。
「今日は、ずいぶん風がありますね」
私の手からポリタンクを受取りながら、男の店員が言った。
背中に「安全」という意味の英語の書かれたジャンパーを着た店員の声は、やけにのんびりとしている。
このスタンドには何度か灯油を買いに来たことがあり、この店員の顔も見知っていたが、
話しかけられたのはこれが初めてだった。
「そうですね。空気も冷たくて、痛いくらい」私は言った。
「寒の入り、と云うんですかね。このくらいの季節になると、春が恋しくて仕方ありませんよ」
腰を屈めた姿勢で、男は慣れた手つきで給油しながら、まるで哀訴のように眉尻を下げて笑った。
男が笑うと背中の「安全」の文字が、まったく違う次元の言葉のように見える。
「南極のペンギンたちのことを知っていますか?」
色の薄い灯油をタンクに注ぎながら、唐突に男が言った。
その言い方があまりに自然だったので、彼の言う『ペンギン』が
私の思い描くペンギンと遠くかけ離れているように思われて反応を返すまで妙な間が空いてしまった。
「ペンギン……ですか」
「ええ、ペンギンです。鳥の仲間なのに空も飛べず、種の多くは南極に生息しているという、あのペンギンです」
「それなら、多分知っていると思いますが、そのペンギンが、何か?」
私は思わず男に尋ねた。
「いや、どうと云うわけではありませんが、いや何、ちょっと思い出してしまっただけなんですが」
男はなぜだか少し照れたようにそう言うと、
「こんな寒い日は南極に住むペンギンたちの、ハドリング行動を思い出すのですよ」と、少し早口で話し出した。
「ハドリング行動?」
「ハドリング行動というのは、南極でブリザードが吹き荒れる時期に見られるペンギンの自己保身行為のことです。
主にペンギンのヒナを核として、一ヶ所にみんなで身を寄せ合って寒さをしのぐのですが、
たまに運の悪いヒナはその中に入り遅れて凍死してしまうのだと言います。
逆に要領のいいヒナは、核の中でも一番あたたかい場所を確保することができる」
そう言うと、男は、やっぱりなんでも要領のいいのが一番なんでしょうね。と言って自嘲気味に笑った。
その時、一際強い風が吹き、手袋も何もつけていない無防備な男の手のひらを晒した。
よく見ると、男の大きな手は科学燃料と排気ガスで黒く汚れ、皮膚の上にたくさんのひび割れをつくっていた。
今の季節、海から吹く風は容赦なく冷たい。
「こんな寒い日は、本当にペンギンにでもなってしまいたいくらいですよ。
私たちは家の中にいて仕事になる、というわけじゃありませんから」
初めて見る店員の饒舌な姿に、私はペンギンのハドリング行動を思った。
ブリザードからお互いの身を守るために、身を寄せ合うペンギンたち。
なんとなく、背中に「安全」と書かれた男たちが、身を寄せて強風をしのいでいる様子を想像した。
それはひどくあたたかで閉塞的な光景に思われた。
相変わらずガソリンスタンドには人影がなく、目の前の道路を車が一台通り過ぎた。
「すいません、なんだか変なことを話してしまって」
男は給油を終えてポリタンクのふたを閉めながら、黙ったままの私に向かって申し訳なさそうにほんの少し頭を下げた。
今日で、この場所ともお別れなので、少し、感傷的になっているのかもしれません。
そう言って、男が立ち上がる。
「会計はあちらでお願いします」
うながされるままに、灯油スタンドから少し離れた所にあるキャッシャーで、
私は9リットル分の代金を払い、レシートとわずかなつり銭を受取った。
「今日で、この仕事をお辞めになるんですか?」
「ええ、色々事情がありましてね」
結局は要領が悪かったってことなんでしょうけれど、いつまでもここにいても仕方ないですし。
そう言って、男は灯油の入ったポリタンクを手渡してきた。
まるで高い買い物をしたかのように丁寧にタンクを持つその手は、やはり黒く汚れている。
たぶん、それは、一生取れない類のものなのだろう。ひび割れだらけの男の手が、やけに目に入った。
「ありがとうございました」
ポリタンクを自転車のカゴに載せて帰るとき、後ろを振り返ると男がきれいに腰を折ってお辞儀をしている姿が見えた。
来たときより重くなったペダルを力を込めて漕ぐ。
それほど長居したわけでもないが、空は既に黄昏に染まっていた。
家に帰ったら、ストーブに火をいれよう。
灯油のストーブはあたたかくなるまで時間がかかるけれど、やはり冬には重宝する。
海の上では鳥たちが帰り支度の用意をしている。
群青色に変わった空を見ながら、私は、自分の吐き出す息だけがやけに白い気がしていた。
終(2006年・8月・相互リンク記念)
文芸部様から相互リンク記念に文章を頂きました。
まだまだハリボテの拙サイトに流麗な文章が!!嬉しいです。
今後とも拙サイト、サークルをよろしくおねがいします。

文芸部様のサイトへGOですよ!!
みずみずしく才知溢るる文章に荒んだ心が洗われるようです…
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